長崎市の伊藤一長(いっちょう)市長(61)が射殺された事件で、逮捕された指定暴力団山口組系「水心会」会長代行、城尾哲弥容疑者(59)は約1メートルの至近距離から市長の背中に向けて1発目を撃っていたことが18日、わかった。さらに、うつぶせに倒れた背中へ2発目を放ち、銃弾はいずれも心臓を貫通していた。市長が選挙カーを降りた直後の犯行で、待ち伏せていたとみられる。こうした状況や本人の「殺すつもりだった」などの供述から、長崎県警は威嚇などの意図はなく、城尾容疑者が当初から明確な殺意を抱いていたとの見方を強めている。
asahi.com:市長への発砲、背後1メートルから 支持者装って接近 – 長崎市長銃撃
長崎の現役市長が暴漢によって射殺された事件について非常に痛ましく思いつつ、酷く違和感を感じてる。
というのは、この事件の報じられ方であったりブロゴスフィアの反応だったりが何となくダチョウ倶楽部の「押すなよ!絶対押すなよ!」的なものじゃないかと。
YouTube – ダチョウ倶楽部
違和感の原因は何かと言えばこの事件を「テロ」と言う事に尽きる。
テロとは何かを表すのに一番すっきりしてるのは警察庁組織令第39条だと思う。
国際テロリズム対策課においては、次の事務をつかさどる。
1 外国人又はその活動の本拠が外国に在る日本人によるテロリズム(広く恐怖又は不安を抱かせることによりその目的を達成することを意図して行われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義的破壊活動をいう。)に関する警備情報の収集、整理その他これらの活動に関する警備情報に関すること。
テロリズム – Wikipedia
テロとは先ず「自分の主義主張」という目的があっての暴力/破壊などを表すわけで、つまるところ暴力は手段になるわけ。更に厳密に言えば暴力の対象は当事者以外の第三者に向かうのがテロだと思う。
纏めれば以下の構成要件が満たされなければテロとは呼べないかと。
- 自分の主張を認めさせる事が目的
- 暴力/破壊は手段
- 暴力/破壊は利害関係者ではない第三者に向かう
国際テロ組織と呼ばれる組織がやっている事はバッチリそのままこれに当てはまる。
例えば9.11のアルカイーダなどは「反米、反ユダヤで親ムスリムな世界を実現する」という目的の為に(アメリカ政府ではなく)無辜の市民を標的とした武力行使(手段)を行っている。
なぜターゲットではなく第三者を狙うかといえば対策の難しさ(逆に言えば成功率の高さ)と、市民に広がる恐怖感(terror)によって世論を誘導しようという狙いに他ならないわけで。
この後者こそが大規模なテロが起こったときに複数のテロ組織が犯行声明を出す理由に他ならないわけ。
要するにテロに便乗して自分たちの意見も通してしまおうという火事場泥棒的な意図が働いてると。
テロかどうかのグレーゾーンにいると俺が思うのはハンガーストライキ。(ハンガー・ストライキ – Wikipedia)
これも自分の主張を通す為に自分に対する暴力を行っているとすれば一種のテロ行為であるとは言えると思うけど、上記構成要件の3つ目を満たしてない。
これに関してはちょっと自分でもまとまってないので保留としたい。
さて、振り返って今回の事件はどうだろう。
城尾哲弥容疑者の自供が報道されるところによると
城尾容疑者は調べに対し、市発注の歩道工事の現場にあったくぼみに自分の車が転落した事故や、知人の会社への公的融資などをめぐって市への不満を募らせていたと供述。県警は、暴力団の組織とは関係なく、市や市長に対する恨みなど個人的な動機による単独犯行とみている。
asahi.com:市長への発砲、背後1メートルから 支持者装って接近 – 長崎市長銃撃
と、個人的な怨恨の線が極めて強いと言える。
これがテロであるならば、自らが認めさせたい主張を世に伝えることによる世論による主張への迎合を狙わなければ筋がおかしなことになるし、実際どの組織もこの事件に対する犯行声明を出してはいない。
この一点を持ってしてもこの事件をテロと結びつける事は出来ないと言える。
しかしこの事件に関する報道はテロと結びつけたくて仕方が無いようにしか見えない。
Google 検索: 長崎 銃撃 テロ
以下に一部を抜粋する。
伊藤市長を撃った男の詳しい動機や事件の背景はまだ分からない。
だが、その暴挙は決して許されない。公職者に対する非道であり、民主主義を冒涜(ぼうとく)する愚劣な行為である。法治国家として認められない。
(中略)
被爆地の市長として自民党の中川昭一政調会長の核保有議論をめぐる発言や北朝鮮の核実験を強く批判していた。昨年8月の長崎平和宣言では「2006年を再出発の年とすることを決意し、恒久平和の実現に力を尽くすことを宣言します」と訴えた。
政治家への暴力行為は、言論の自由を封殺するにも等しい。
【主張】長崎市長銃撃 許されない暴力団のテロ|主張|論説|Sankei WEB
この暴力団幹部は至近距離から伊藤市長の背中を撃った。問答無用の卑劣きわまりない犯行だ。民主主義と地方自治の根幹をなす選挙戦ただ中の凶行は社会への重大な挑戦だ。言論を暴力で封じ込める蛮行を繰り返させてはならない。
愛媛新聞社ONLINE 長崎市長銃撃 卑劣なテロを断じて許さない
伊藤氏は候補者として動き回っており、警備も決して万全ではなかっただろう。
そこを狙ったのだとしたら、卑劣としかいいようがない。
どの候補者も、おちおち選挙運動をできなくなる。
暴力で選挙と地方自治を封殺しようとするテロ行為だ。民主主義に対する挑戦であり、なにがあっても許してはいけない。
社説 北海道新聞
このようにテロであると断定した上での報道は「民主主義に対する挑戦であり、なにがあっても許してはいけない」(北海道新聞)などという勇敢なコメントを付けようともテロリストに利する行為であると思う。
何故ならば、このように報道することは犯人(容疑者)の主張を大々的に流布する事に他ならず、それ自体が「彼らはそのような目的の為なら手段を問わない」という認識を広める事であり、ひいては恐怖感の流布であるから。
でも振り返れば有史以降暴力団とはそういう集団である事実は枚挙に暇がない。
誤解を恐れず言うならば、今回の事件は「現役市長が銃撃された事以外、その他の暴力団の事件と変わらない」だろう。
そう。この事件はテロでも何でもなくただの殺人事件でしかないのだ。
これを無為にテロだテロだと騒ぎ立てる事は世論に無意味な恐怖感を植え付ける事になり、それこそがテロリズムの標的となる土壌を醸成している事に気付かねばならないと思う。
そういう意味でこの報道は上島竜平が熱湯風呂の淵で「押すなよ!おまえら絶対押すなよ!」と言っている姿に重なって見えてしょうがない。
押すなと言われれば押したくなるのが人情ってもんだろう。
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